2023/07/27 13:52

 「韓国の短編小説を読む」というプログラムをこれまで十数回やってきました。

年に一回出版される短編小説のアンソロジーがいくつかあって、タイトルや解説文から面白そうな作品じゃなかろうかな、と、ある意味では出たとこ勝負で選んだ作品を、それこそ辞書と首っ引き、辞書と格闘しながら読むという試みです。

こんなのがあるよ、と紹介されて作品を選ぶこともあります。

 

 


〈教科書では味わえないダイナミズム〉

 作家さんは、外国語として韓国語を勉強する人のことなど念頭に置いていないと思います。外国の読者のことまで考慮して作品を書いたりはしないんではないでしょうか。翻訳前提の作品もあるにはあるのでしょうが、韓国なら韓国の作家さんは、韓国語母語話者向けに作品を書いているはずです。

作家さんの内的な必然性が求めるままに(あるいは編集者が求めるままに)韓国語をつむぎだして、作品にしあげるわけでしょうから、韓国語の教科書に出てきがちなわかりやすい例文が持っている消化吸収の良さは、これらの作品にはありません。

そのかわりに、癖は強いけれど中毒性も強い香りやコク、こういう単語の組み合わせもいけるんだという眩いばかりのダイナミズムに溢れているのが、生の韓国語の醍醐味と言えば言えるでしょう。口当たりは異常に良かったり悪かったり、天然物のエグ味と芳醇さに満ち溢れています。

 

〈文化背景への入り口〉

 教科書もそうですが、単語と文法はわかるんだけど、文の意味が理解できないということは珍しくありません。日本語でも往々にしてあり得ることです。
これは、文化背景って言うんでしょうか、その社会で当たり前の常識なり、言葉の背後に横たわる歴史なり社会通念なりの基礎知識を知らないと、言ってることがわからない、辞書に引っ張られて誤読するという危険性があることを意味します。

地理や、有名人の名前、テレビ番組や流行歌、食べ物の味だって文化背景です。

その地域に生まれて暮らしてきた人なら、誰でもまあまあ知ってることの総体みたいなものがここで言う「文化背景」です。

こういうのは、映画やドラマ、小説なんかが、かえって入り口になるとも言えます。逆に言えば、外国人にとっては、ここにしか入り口がありません。

 

〈誤読の自由、不純物の意義〉

 ここで敢えて言い切ってみます。

ある作品を楽しむためには、単語や文法の辞書的な正しい解釈と、文化背景への理解が必要かつ重要です。

そして、誤解や誤読は読者に許された自由のひとつでもあると思うのです、私は。

あ、私というのは、このサイトの管理者であり、この文の筆者である私のことです。

 

 誤読、と言ってしまいました。解釈の違い、異なる楽しみ方の切り口と言い換えてみます。

何もわざわざ、辞書とは異なる支配的ではない周辺的なひねくれた解釈をして、故意におかしな読解を試みようというのではありません。

読者の勘違いでもなんでもいいのですが、作家が意図していなかった読み解きを読者がすることで、作品にさまざまな方向からの光が当たる可能性のことを言いたいのです。

 

単なる勘違いに起因する誤った解釈がベースであったりすると、誤読の自由だなんだと威張って、これが面白いんだふんぞりかえったところで、単なるポンコツな陰謀論まがいの間違いに過ぎないことがほとんどです。


でもね、いいんです。間違っても、ひとりよがりでも、ポンコツ解釈でも、なんなら陰謀論めいたヘンテコ解釈だって。

ただし、自分の解釈を人に押し付けて強要しなければ、何をどう考えたっていいという条件付きで、ですが。

 

作家さんの意図は意図として、辞書と格闘する中で、韓国語と作品に寄り添うという楽しみ方もあるし、その結果が誤読や誤解であっても、誰にも迷惑にならないよ、ということを言いたかったのです。

その過程こそが、韓国語に対する露出度を上げること、韓国語を検知するセンサーの精度を上げること、韓国語に浸り、耽溺し、その果てに、もしかしたら韓国語が世間的な意味合いで上手になることにつながるとも言えます。

上手になることだけを目指すのは味気ないし、おそらく不純物までも一緒に飲み込まないと上手にはならないだろうなとも思います。

こうなると純粋と不純の境目など無いとすら思えます。

 

〈短編小説の読解をプログラム化するということ〉

 お金を払って韓国の短編小説を読むという学習者の営み。お金をもらって学習者をサポートするという講師の営み。
視点は異なっても、学習者も講師も、レッスンに至るまでにしていることは同じです。辞書を引きまくる。日本語訳を試みる。文化背景なりを言葉の裏から掘り起こす。必要に応じて、ネットで深掘りしたり、ネイティブスピーカーに訊いたりする。

 

経済社会、消費社会に生きる人間として、知識と労力への対価を介在させることになります。

そのお金の方向性は、講師がどれだけの質と量を持って学習者をサポートできるかにかかっています。

プロとアマチュアという線引きに意味があるとは思えないのが私の率直な考えなのですが、より率直に言いますとね、お金をいただく以上、受講生のどなたよりもたくさんの予習をしてレッスンに臨むのが講師の務めだと勝手に思っています。

 

 そして、学習者である受講生、サポーターである講師が知恵と労力を結集して読み解いた作品を、一緒に楽しく語り合いたいとも、私は願い望んでいます。

 

あ、短編小説である意味ですか?

短いから。

長編は、読み終わらないから。

...いや、いいんですよ。長編小説でも。

でも、一回90分や120分のレッスンで進むことができるのは、どう頑張ってもほんの数ページ。

20巻とまでは言わずとも、一冊250ページの長編小説一本をプログラム化して読み終えるのに、週一回のレッスンで一年くらいかかっちゃうのが難点といえば難点です。

なので、短編小説。短ければ45ページ、だいたい20ページちょっとくらいの量なので、これなら頑張れるかなという気もしますでしょう?

短編小説が好きな講師である私の好みもありますが。

 

講師である私だって、学習者の成れの果て、と言うより現役の学習者。

と言うか、韓国語が好きな一介のマイルドなオタクです。

一緒に楽しみたい、というのがいちばんの意義かな、とも思っています。楽しみは分かち合いたい。褒め称えいたい。もっと知りたい。分かち合いたい。

 

一緒に楽しみましょう。サポートします。実費はいただきます。

これが、サイト管理者、講師としての私の立ち位置、スタンスです。

身も蓋も無くシンプルに、韓国語に向き合っています。われながらちょっとバカっぽいかもしれません。